The Sun also Rises.

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シリア人質事件と日本人の精神構造

イスラム国によるシリア人質事件の日本での受け止められ方を見ていて、ぼんやりながら日本人の精神構造の一端が見えてきたように感じた。つまり、日本に原始から根付くアニミズム的な思考が現代もなお息づいているのが事件後の政府批判をする側に見えた。

 

世界のメディアでは、イスラム国に人質にされた日本人2人に対して同情の声がよく聞かれた。日本の一部のネット民による「クソコラグランプリ」も一見すると一部の海外メディアは賞賛しているように見えたが、実のところ賞賛している体裁で皮肉を言っていて「the Japanese are weird(日本人はおかしいんじゃないの)」と思われていた。

 

人質事件が最悪の形で終わってしまい、世界のメディアでは特に後藤さんをジャーナリストとして讃える動きが広まっている中、日本ではイラク人質事件の際に盛んに言われた「自己責任」の名の下叩くことが実際に周囲でもよく見た。「自己責任」が「自業自得」とか「因果応報」の意味になってしまうのは、やはり日本社会にはlibertyが理解できる土壌がなかったからかもしれない。福沢諭吉が翻訳に苦労した150年前と日本社会は本質的に変わっていないのかもしれないなと思い、日本人の精神構造がどんなものなのか思索してみた。

 

日本でイスラム国を非難する人があまりいなく、人質を叩くか政府を叩くかに分かれてしまっているところが日本的と言えば日本的だと思う。日本人にとって世界は本当に日本だけ。海外は日本の埒外にあるんだなと再認識し、同時に地平線の先に見えるのは世界ではなく日本なのかと痛感した。日本人にとって世界は未知の世界であり、神仏の住む世界のような別世界なんだろう。

 

シリアで人質になった人を利用したのが安倍首相とするなら、反安倍勢はイスラム国と人質の死を利用して政権批判をしているだけとも取れる。共産党が唯一イスラム国を非難する声明を出していた。中国の内政の延長が外交と言われるのと実は日本も似ているかもしれない。

 

日本政府を非難する側になぜイスラム国を非難する人が少ないのかと少々疑問を感じたのでそこを掘り下げてみた。日本人にとってイスラム国は自然災害みたいな存在で、自然災害に腹を立てても「しょうがない」と受け入れてしまうような心理がどうもイスラム国に対してありそう。もし米軍の潜水艦が日本の漁船を沈没させて2名の命を奪ったとわかったら反米機運が巻き起こってしまう。この2つの違いの差に日本人のメンタリティが何かの一端が隠されていそう。

 

テロリストというのは偶発的な存在で自然災害と同一視されていて、一方、国家は人格と同じなので脅威を感じるとナショナリズムが沸き起こってしまうものなのかもしれない。テロリストは幽霊とか自然災害などのように人智を超えた存在のように思われているので「政府がカイロで余計な演説をした」ことで「神」の怒りを買い、触らぬ神に祟なしと言わんばかりに政府批判をしてしまうのかもしれない。日本人の奥底に眠っている自然への畏怖の念がテロリストにも適用されてしまった結果がシリア人質事件だったと解釈すると、日本に求められるのはテロ対策などではなく、実は本当に必要とされているのは「神」の怒りを鎮めるための儀式なのではないでしょうか。

 

つまり日本の精神構造は、神道にあるようなアニミズムを現代の日本人も引き継いでいるので本来批判すべきイスラム国ではなく政府を非難してしまうのではないのか、という仮説に行き着いた。